気持ち悪い言葉ばかり。
毒で自殺未遂する夢を見た。
ぶどうジュースに毒が混ざっていると知って、まず飲んで、体調悪くなったことを確認した。
そして、私はこう思うのだ。私はいつでも死ねると。
そのあと一日のうちで何かある度に少しずつ飲む。
毒の濃度が低いのか遅効性なのか、体調が悪いけど死なない。笑いながら普通に会話しながら毒を飲む。何の気なしに私は緩やかに死んでいこうとする。
それが怖かったし、面白かった。
何の気なしに私は死ぬ。
笑いながら何も無く死ぬことを選べる。
自殺するなら失敗しない毒物にしたいと何の気なしに思った朝だった。
最近は、平井堅のノンフィクションの
「惰性で見てたテレビ消すみたいに生きる事を時々辞めたくなる」という歌詞に感銘を受けている。
楽しい時とかじゃなくて変な憶測が飛ぶとかでもないタイミングで、みんなが思わなかった何も無い日に死にたい。最近は死ぬとか生きるにあまり興味が無い。
死ぬ時が来たら死ぬ。それが自分からなのか事故なのか、病気なのか分からないだけ。
心配されたい訳でも、励まされたいわけでもない。わかって欲しい。私という気分屋を。
もし私が死んでも、みんなみたいに病んでいたとかじゃなくて、ああ、そういう気分になったのねって思ってくれていい。ノンフィクションの歌詞を借りるとしたら、テレビを見る気分じゃなくなっただけ。
自分だけの命じゃない論よくあるよね。
でも誰も別に私のこれからをどうにかしてくれる訳じゃない。変わって、分かって、なんて出来ない。
私の辛いなんてわからなくて当然だ。だって私は貴方のことをきっと1%も分かっていないだろうから。
ごめんね。だから好きに生きてね。
そもそも、死にたいってそんなに悲しい感情なのか
死ぬ事は悲しいのか。分からなくなってきた。
死ぬと生きるの境目って曖昧だよ。知らないけど、私の中では悲しいこととは思わない。自殺を選んだ人間が年々増えているのは悲しいのか。
集団の中で生きていると厚い皮膚があって、皮膚が厚すぎて同じ空気になれない時がある。人の形を失えば空気に飽和して、いつか溶け込めるのだろうか。皮膚を少しでも切れば、少しでもわかるのだろうか。そう思ったりする。
自殺がしたいわけじゃない。死にたい訳でもなく、みんなに心配されたい訳でもない。大丈夫。私は今は全くその気分じゃない。ただ、その気分になったら失敗したらしんどいから、うまく死ねるように考えておきます。ではまた。