カタストロフと美術のちから展 備忘録
戦争やテロ、難民問題や環境破壊など、危機的な問題が山積する今日において、美術が社会を襲う大惨事や個人的な悲劇とどのように向き合い、私たちが再生を遂げるためにどのような役割を果たすことができるのか。本展は、負を正に転ずる力学としての「美術のちから」について注目し、その可能性を問いかけます。
【森アーツ美術館公式サイトより引用】
衝撃が大きすぎて中々消化出来ていなかったので、手帳に書き溜めて1週間かけてやっと頭が纏まってきたので、拙い文章でこの展示の恐ろしさをお話しようと思います。
まず、入って直ぐにある
壊れた実寸大程の家屋の巨大なモニュメント
地震のあとの瓦礫の山のようでうわぁ……って何か吐き出してしまいそうな程である。
人がさっきまでいたような中の様子まで再現されていて、ゾッとした。
壁には''創造は破壊から始まる''と描かれていた
その通りなのかもしれないが、辛かった。
そして中へ進む。
初めのひとつ見るだけで正直もう疲れている。
中に進むと阪神大震災で被災した方が描かれた震災の絵が40枚ほどあった。
リアリティと言うよりは印象的に描かれたそれらは本当に心理が入り込んでいた。
家屋は赤く塗られ、黒で勢いよくかかれていて怒りと悲しみが感じ取れる。
その上でなんとも言えないくらい空は青いのだ。水色で空は知らないと言った顔で青く地獄の上で笑っているみたいで涙が出た。
他にもそのエリアには闇を抱えたような家族の絵や大気汚染のためか大きなガスマスクをつけた人や、動物の血で描かれた絵までもが展示されてていた。
そして次のエリアは難民について、紛争についての映像作品や写真、社会風刺の作品が沢山あった。この辺でもう脳みそがうわああああああってなりかけていた。
その後は理解するという事の映像作品が心に刺さった。''受け入れる''と''寛容''の違いは何か。
受け入れるはしょうがないみたいな、きもちだが、寛容はそんなことを気にしない、そっか。というような感じである。
また、それをする為に言語を同じにしなくてはダメなのではないか?ニュアンスが変わる。
多少は勉強をしていなければ人の気持ちになるのはできないのではないか?人の気持ちになった所で当事者とは違うことは大いにある。なので当事者の話を聞くべき。
この内容は10分くらいの国籍や歳が違う人々のディスカッション映像で語られたものである。
なんだこれってなって今も心に来ている。
初等教育は人と分かり合うためにあるという言葉は結構すごいと思う。
凄いとしかまだ言えないのだけど、ああこの映像を見るために今日ここに来たのかなと思うほどであった。見入ってしまった。
それからのことはあまり覚えていない。
なんだか考えながら歩いていたらいつの間にか電車に乗って眠ってしまった。
脳みそも感性も疲れきってフラフラだったと思う。でもあそこに行くべきして行ったのかなと思う。このブログを書ききるのも思い出すだけでしんどくなってしまっているけれど、みんなには見に行って欲しい。
このしんどさこそ美術のちからの産物だと思うので。
長々とお付き合い下さりありがとうございました。